山岡鉄舟が書いた江戸無血開城の始末書


Anshin(アンシン)  Anatoliy(アナトーリー)  著

日本歴史学会編 『日本歴史』、第708号、2007年5月、80-87頁




凡例

- 本論文の史料のために引用を行った際、旧字を常用漢字に、句読点を現代表記に改め
  た。必要と思われるところに 振り仮名を付し、句読点とスペースを補った。歴史的仮名遣い、
  変体仮名、捨て仮名、濁音の表記は改めていない。

- 引用文中の単語の前に入れたスペースは、「欠字」の意味である。
  例: 「...恭順謹慎シテ  皇室ヲ遵奉スル...」。

- 引用文中の 「 ┓」 は、「コト」の意味である。

- 敬称は一切省略した。


  なお、本論文は、日露青年交流センターの助成による研究成果の一部である。



はじめに

    明治時代に江戸無血開城の功労者、天皇の側近などとして有名であった山岡鉄舟は、日記、自叙伝など、彼の思想と事績を窺い知ることが出来る文書をほとんど書いていないので、その生涯と事績を知るには二次・三次資料に頼るしかない。しかし、江戸無血開城前後の経緯については、山岡は二つの文書を遺している。現在、全生庵(山岡が1883年<明治16>に建立。東京都台東区谷中)に保存されている「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(1882年、以下「戊辰談判筆記」と略)と「慶応戊辰四月東叡山ニ屯集スル彰義隊及諸隊ヲ解散セシムベキ上使トシテ赴キ覚王院ト論議ノ記」(1883年、以下「覚王院論議記」と略)という始末書がそれである。

    江戸無血開城は、日本の将来を左右した一大事件であったにもかかわらず、原口清の「江戸城明渡しの一考察」(1) を除いて、江戸無血開城を正面から取り上げた研究はない。また、明治維新あるいは戊辰戦争を題材としている研究の中で江戸無血開城が取り上げられる際、主に勝海舟、英国公使パークスの役割に重点が置かれ、裏側で活躍した下級幕臣山岡鉄舟、その他の人物の役割がかなり軽視されているという事実は否定できない(2)。その意味で「戊辰談判筆記」と「覚王院論議記」は、江戸無血開城前後の経緯とそれにおける山岡鉄舟の役割を知る上できわめて重要な一次資料である。両文書は、これまで存在が全く知られていなかった訳ではない。「戊辰談判筆記」は、上記の原口論文で使われ、また「覚王院論議記」は『野史台維新史料叢書』(3) に収録されている。しかし、両文書の成立事情などがこれまで検討されたことはない。本稿は、江戸無血開城研究に一石を投ずるために、これらの史料について考証し、さらに、山岡鉄舟直筆とされ、正体が明らかでない「戊辰の変余が報国の端緒」の信憑性を検討していくことを課題とする。


一 山岡鉄舟直筆の始末書

    「戊辰談判筆記」は1868年(慶応4)3月、駿府における西郷隆盛との会談を含め、江戸無血開城に至った経過について、山岡鉄舟が1882年(明治15)3月に宮内省を辞する数ヶ月前に書いた文書である(4)。この文書は、「慶応戊辰談判筆記」、「戊辰解難録」、「明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記」、「西郷との応接の記」、「両雄会心録」など様々な題名で出回っているが、いずれも同じ内容である。そのうち「戊辰解難録」は、1884年(明治17)6月に金田清左衛門なる人物が「戊辰談判筆記」・「覚王院論議記(かくおういんろんぎき)」・「正宗鍛刀記(まさむねたんとうき)」をまとめて出版した書物の題名であるが、これがのちに「戊辰談判筆記」の別名として俗に広まったのである。

    山岡鉄舟は自分の功績を表に一切出さず、論功行賞を極力避けていたと言われる。この点については、長年にわたって山岡の内弟子であった小倉鉄樹が「山岡は功は人に譲り、労は自ら負ふ主義であつた」(5) と指摘する通りであった。山岡が、1881年(明治14)に明治政府が行なった維新勲功調査の時に、賞勲局への書類提出を拒否したことも山岡の論功行賞に対する態度を表す一例である(6)。したがって、特別の事情がない限り江戸無血開城における自分の功績を筆記することはなかったであろう。しかし、この特別の事情は何であったか、なぜ山岡がこの始末書を書き残したのかは、明らかではない。山岡の最も有名な伝記、『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』(1937年、以下『おれの師匠』と略)には「戊辰解難録は宮内省を辞する頃山岡が当時の状況(江戸無血開城のこと・引用者注)を書いて乙夜の覧に供したものである」(7) と書いてある。「乙夜の覧に供した」というのは「明治天皇のご覧に入れた」という意味であるが、これは、山岡が既に厚い信任を受けていた明治天皇の依頼で書いたものか、それとも明治天皇に読んでもらうために献呈したのか、は記されていない。

    上記の通り、山岡鉄舟は「戊辰談判筆記」を1882年(明治15)3月に筆記している。その原稿を、大森方綱なる人物(山岡の指導の下で1869年<明治2>に静岡牧ノ原の開墾に従事し、後に山岡の剣術道場の門人となった)が山岡の同志と門弟(8) であった松岡万(同じく静岡牧ノ原の開墾方頭取)(9) から借り受け、同年6月に『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』として出版した(10)。同書の末尾に大森方綱による後書があり、そこに出版に至った経過が記されているので引用しよう。

        予偶松岡万君ヲ訪ヒ雅俗ノ談話綿々トシテ絶ス。時ニ松岡君机上ノ一小冊ヲ採
        テ曰、此書ハ山岡鉄舟先生戊辰ノ際ノ事ヲ筆記セラレシモノナリト。予之ヲ披キ
        見ルニ先生ノ天下ノ為ニ尽力少ナカラサル ┓素トヨリ人ノ知トコロト雖モ未タ如
        此詳悉ナルヲ聞サルナリ。若此時ニ当テ先生ナカリセハ或ハ過激ノ士主君
        (徳川慶喜・引用者注)ノ恭順謹慎シテ  皇室ヲ遵奉スルノ趣意ヲモ顧ス妄リニ
        官軍ニ抗シ弥主君ヲ朝敵ニ陥ルヽノミニアラス終ニ大戦ニ及ヒ万民ノ塗炭ニ苦ム
        ヘキヲ先生其間ニ立テ大義名分ヲ明ラカニシ国家ヲ維持ス。実ニ忠烈無雙ト謂
        フヘシ。先生如此キ功労アレトモ猥リニ人ニ語ルコトナク辞職ノ今ニ至テ初テ此
        事ヲ筆記セラルヽコト尋常ノ人ノ其功ヲ() リ名利ヲ貪ル者ト日ヲ同フシテ語ル
        ヘカラス。而シテ空シク此書筐底ニ秘センヨリハ若カス其悉シキヲ知サル者ノ為
        ニ上梓センニハト即松岡君ニ議ルニ只叉手シテ先生ニ憚ルノ色アリ。予曰若シ
        他人此書ヲ得ル ┓アラハ必上梓セン。其上梓スルニ於テハ惟彼ト我トノ異ナル
        ノミト。於是松岡君最然リトナシ即相議テ之ヲ上梓スト云爾 。

松岡万と大森方綱は「戊辰談判筆記」を出版するために山岡鉄舟の許可を得ているかどうか、ここには記されていないが、「先生ニ憚ルノ色アリ」等の文面から、山岡からは許可を得ることができないと考え、おそらく無断で出版したものと推測される。この引用文から分かるように、山岡による「戊辰談判筆記」の執筆は宮内省辞退と何らかの関係があったと思われるが、これ以上具体的なことは分からない。

    また、山岡直筆の「覚王院論議記」は、1868年(慶応4)4月に山岡が幕府の使者として上野に赴き、覚王院義観(11) に彰義隊の解散を力説した始末を筆記したものである。筆記日付は1883年(明治16)3月で、下書きは全生庵に保存されているが、清書は見つかっていない。そして、この史料も「戊辰談判筆記」と同様に、執筆に至った経緯が明らかではない。

    以上のように不明な点も少なくないが、とにかく、山岡鉄舟による江戸無血開城前後の経緯についての筆記が1881-1883年(明治14-16)という山岡の人生に重要な変化が生じた時期と重なっているということは事実である。これらの変化というのは、1881年(明治14)に明治政府によって行なわれた維新勲功調査の時に山岡が賞勲局に書類提出を拒否したこと、山岡が1882年(明治15)6月に元老院議官に任命され、同月、宮内省を辞退したこと、同月、井上(かおる)が勅使として持参した勲三等を山岡が拒絶したこと(12)、同月、明治天皇の御用掛に任命されたこと、同年の秋頃に徳川家達(いえさと)が山岡の維新時の功績を労うために、彼に徳川家の家宝とされていた名刀「武蔵正宗(むさしまさむね)」を授与したことなどである。



二 「戊辰の変余が報国の端緒」の信憑性

    明治30年代に「幕末の三舟」について数多くの書物を著した人物に生没年も経歴も、その人となりも良く分からない安部正人なる人物がいる。彼は、山岡鉄舟について、内容のほとんどが「講話記録」あるいは「随筆」である『武士道』(1902年)、『鉄舟夫人英子談話 女士道』(1903年、以下『女士道』と略)、『鉄舟随筆』(1903年)を著している。また、「幕末の三舟」全員を扱う『三舟秘訣 鉄舟・海舟・泥舟』(1903年)と『徳川政道 家康遺訓三舟補述』(1903年)も刊行している。安部正人の編著の成立事情と背景について、これまでに明らかにした研究がなく、そこに収録されている山岡鉄舟の「講話記録」と「随筆」のほとんどが安部正人による創作であることも広く知られていない(13)。ここでは、日本史研究者が採用している山岡鉄舟の「随筆」の一つ、「戊辰の変余が報国の端緒」の信憑性について検討したいと思う。

    「戊辰の変余が報国の端緒」の執筆日付は1869年(明治2)8月であり、内容は「戊辰談判筆記」に似ているが、重要な違いも見られる。その出処は、安部正人編『鉄舟随筆』(1903年8月初版本刊行)である。原口清は「江戸城明渡しの一考察」の中で、山岡鉄舟が江戸無血開城の直前に幕府側の駿府への使者に決定された経緯を述べる際、「戊辰の変余が報国の端緒」を「山岡の手記」として使用している(14)。原口論文のほかにも、「戊辰の変余が報国の端緒」が多くの文献に使われている(15)。原口論文の場合は、出典になっているのは、徳富蘇峰著『近世日本国民史。明治天皇御宇史』、第7冊「官軍東下篇」である。徳富蘇峰は「戊辰の変余が報国の端緒」について「(前略)山岡自身が、明治二年己巳八月に記したるところにして、其の実録たるや、毫も疑を容るゝの余地無しだ」と断言し、そのまま『近世日本国民史』に載せている(16)

    しかし、山岡鉄舟の内弟子、小倉鉄樹は、「この文は疑もなく山岡鉄舟の書いたものだと徳富蘇峯は断じているが、師匠の文としてはすこし上手すぎる。これは戊辰解難録と比べてみるとよくわかる。これは後年、山岡の談話を、門下の籠手田安定あたりが筆録したものであるという者もいる(後略)」と口述している(17) ここで小倉は「者」という表現で安部正人のことを暗示している(18)。また、その文体について小倉は「此の文は師匠の書いたものとは思われぬふしがある。師匠の文と異ふことは戊辰解難録とくらべて見るとよくわかる」と述べ、「戊辰の変余が報国の端緒」で描かれている山岡鉄舟と勝海舟の初対面、また益満休之助が山岡と駿府に同行するに至った経緯が山岡直筆の「戊辰談判筆記」とはかなり違う点を指摘している(19)

    では、「戊辰の変余が報国の端緒」と山岡鉄舟の筆記と確実に分かっている「戊辰談判筆記」はどう違うのだろうか。小倉鉄樹が言う通り、最も目立っている違いは文書の文体である。山岡の文体を簡潔に言い表せば、素朴で、装飾的な文章がない事である。小倉は、「元来師匠は書はよくしたが、文はあまり学んではゐないからあれほど巧みではない。しかし、三田村(鳶魚(えんぎょ)氏)(20) 等も自分たちには真似出来ぬ名文であるといつてゐる通り、師匠独特の風格があるのでよく読むとすぐにわかる」とも述べている。また「戊辰談判筆記」について「山岡は文学に疎かつたから文章は拙いが、それでも気持はよく出て居て、其の文の拙いのが却つていい」とする(21)。これに対して、「戊辰の変余が報国の端緒」には装飾的な表現が多く、また、山岡鉄舟らしくない感傷的な叙述が見られる。

    安部正人は『鉄舟随筆』収録文書の入手経緯、原本の保存先などについて、詳しく言及せず、問題の「戊辰の変余が報国の端緒」も例外ではない。そもそも、山岡鉄舟が、なぜ13年後、同じ内容を「戊辰談判筆記」としてもう一度書かなければならなかったのかという疑問も生じてくる。さらには、『鉄舟随筆』の目次に「戊辰の変余が報国の端緒」と「戊辰談判筆記」が一緒に並んでいること自体がおかしい。

    上記のような文体に関する疑問以上に、「戊辰の変余が報国の端緒」が偽作である決定的な証拠は次の通りである。「戊辰の変余が報国の端緒」の末尾に続けて載せられている高橋泥舟の「実話」は、『鉄舟随筆』の半年前に出版された安部正人編『女士道』(1903年2月初版本刊行)にも高橋泥舟の「直話」、つまり安部が高橋泥舟から直々に聞いた話として載っている(22)。しかしながら「戊辰の変余が報国の端緒」についての言及が一切なく、全く同じ内容が少し違う言葉で叙述されている。安部が高橋泥舟の話を本当に聞いたかどうかという問題はさておいて、たとえ山岡鉄舟が「戊辰の変余が報国の端緒」を筆記し、その終りに高橋泥舟の「実話」を入れたとしても、安部が文の順序も含め全く同じ言葉を30年後高橋泥舟から直接に聞いたはずがないのでどちらかが本当でないことになる。つまり、『女士道』が出典を明記せずに「戊辰の変余が報国の端緒」から高橋泥舟の「実話」を引用しているか、あるいは反対に『女士道』に出ている高橋泥舟の「直話」が「戊辰の変余が報国の端緒」の終りに付け加えられているか、いずれかである。ちなみに、小倉鉄樹もこの「実話」について「高橋泥舟も元来ほらつぷきであるので此の文(「戊辰の変余が報国の端緒」・引用者注)の終りの方にあることも信が置けぬ」(23) と言っている。

    不明瞭な出処、文体の違い、小倉鉄樹の口述、『女士道』記載の高橋泥舟の「直話」との比較などから「戊辰の変余が報国の端緒」は、山岡鉄舟の直筆のものではないという結論になるのである。つまり、「戊辰の変余が報国の端緒」は偽作の可能性が極めて高く、これを日本史研究のために使用すべきではないのである。


むすび  

    以上、江戸無血開城前後の経緯と山岡鉄舟の関係を巡る一次資料を検討した。既に上述した通り、「戊辰談判筆記」と「覚王院論議記」は、これまで存在が全く知られていなかった訳ではないが、他の明治維新関係史資料に比べれば、その認知度がかなり低いと言わざるを得ない。だが、これらの史料から江戸無血開城前後の経過について新しい事実を知ることができる。例えば、「戊辰談判筆記」には、次の興味深い記述がある。

        (前略)急キ江戸城ニ帰リ、即チ大総督宮ヨリ御下ケノ五ヶ条西郷氏ト約セシ
        云々ヲ詳ニ参政大久保一翁、勝安房等ニ示ス。両氏、其他重臣、官軍徳川
        ノ間、事情貫徹セシ ┓ヲ喜ヘリ。旧主徳川慶喜モ欣喜、言語ヲ以云ヘカラス。
        直ニ江戸市中ニ布告ヲナシタリ。其大意如此。大総督府下参謀西郷吉之助殿
        ヘ応接相済ミ、恭順謹慎実効相立候上ハ、寛典ノ御( (ママ))分相成候ニ付、市中
        一同動揺不致、家業可致トノ高札ヲ江戸市中ニ立ツ。是ニ依テ市中ノ人民少
        シク安堵ノ色アリ。

    以上の文脈から分かるように山岡が西郷との談判を終えて、江戸に帰って直後、江戸で市民を安堵させるための高札が出されたのである。この点が、原口論文でも見逃されているが、きわめて重要な出来事である。山岡が述べていることが間違っていなければ、従来の見解と違って、江戸薩摩屋敷で勝海舟と西郷隆盛の会談が開かれる前に、徳川幕府の方で江戸総攻撃中止の見込みが十分に立っていたということになるのではないか。そうでなければ、江戸市民を安堵させる高札という徳川幕府による行政行為はあり得なかったであろう。このことも含め、山岡が直筆の文書で述べていることについて、他の史料との照らし合わせ、更なる考証が必要である。

    江戸無血開城と山岡鉄舟の関係を巡る一次資料は、本稿で取り上げたものに尽きるが、後は二次・三次資料に頼らざるを得ない。重要な二次資料の一つには、国立国会図書館憲政資料室所蔵の岩倉具視関係文書に収録されている「正宗鍛刀記」がある。昔の武士社会では、主君が手柄を立てた家来に刀を与えるという習慣があり、江戸城が官軍に明渡される直前、徳川慶喜が勝海舟に刀を与えたという事実を勝海舟の日記から知ることができる(24)。しかし、江戸無血開城の14年後、徳川家の第16代目宗家となった徳川家達が、江戸無血開城における功績を労うために山岡鉄舟に名刀を授与したという事実はあまり知られていない。この事実を伝える文書は「正宗鍛刀記」であり、その考証を別稿に譲る。





(1) 原口清「江戸城明渡しの一考察」(一)・(二)(『名城商学』、21(2)-21(3)、1971-1972年)。

(2) 研究者によっては勝海舟、英国公使パークスなどの役割に偏っているきらいがある(例えば、松浦玲『勝
       海舟』<中央公論社、1968年>、石井孝『明治維新の国際的環境』<吉川弘文館、1982年>など)。
       民間レベルの研究にも同じような傾向が見られ、とりわけ論功行賞の色が濃い(山口義信『江戸開城論 
       勝・山岡・パークス』<個人出版、1985年>、山中秀夫『江戸無血開城のうそ』<日本出版放送企画、
       1993年>など)。江戸無血開城を総合的に扱っているのは前掲「江戸城明渡しの一考察」のみであろう
       が、ここでも山岡鉄舟等の活躍が徹底的に究明されている訳ではない。

(3) 日本史籍協会編『野史台維新史料叢書』、別編37・雑5(東京大学出版会、1975年)。

(4) これは、江戸無血開城が実現した15年後に書かれた文書なので、山岡の多少の記憶違いも見られる。
       例えば、西郷隆盛が山岡鉄舟に渡した徳川慶喜の降伏条件は5カ条からなっていたと「戊辰談判筆記」
       に書いてあるが、原口清の研究にあるように実際には7カ条があった(前掲注 (1)「江戸城明渡しの一考
       察」(一)129頁)。

(5) 小倉鉄樹炉話、石津寛・牛山栄治手記『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』(春風館、1937年)151頁。こ
       の伝記に出ている小倉鉄樹の口述は、山岡鉄舟と4年間にわたって寝食を共にしていた人物のもので
       ある。小倉は、1881年(明治14)12月から山岡鉄舟が没した1888年(明治21)7月まで、凡そ6年間半
       (ただし、その内2年間半、山岡の命でその側を離れ、京都で禅の修行に励んだ。なお、入門直後、山岡
       道場の離脱期間は数ヶ月に過ぎなかったと思われる)にわたって山岡の内弟子であった。山岡の内弟
       子の生活は、家宅と道場の掃除、炊事、食事中山岡の給仕など、多岐にわたり、小倉の場合は、本格
       的に剣術の稽古に入った時に一切の家事を免除されたが、とにかくほとんどの時間を山岡の家宅と道
       場で過ごした。小倉自身も「おれは大抵師匠の傍に居て用を足してゐた」というふうに回想している
       (以上、『おれの師匠』、241頁、253頁、413頁)。なお、小倉鉄樹の回想によると彼が1881年(明治14)
       12月31日に山岡鉄舟の内弟子となったが、これはまだ正式な入門ではなく、牛山栄治の『山岡鉄舟の
       一生』(春風館、1967年)の245頁によれば、小倉鉄樹が門弟名簿に正式に登載されたのは1882年
       (明治15)9月3日だった。尚、この伝記はこれまでに山岡鉄舟についての「聖書」として崇められ、唯一
       の「正伝」として扱われてきた。しかし、実際には、その信憑性に大きな問題がある。『おれの師匠』の
       編者牛山栄治(1899-1979)は、長い間山岡鉄舟の内弟子であった小倉鉄樹の口述以外に、様々な文
       献からほとんどそっくりの引用を行い、出典を全く示さなかったので、口述と引用が混同されてしまい、
       何も知らない読者にとって伝記全体の内容が小倉鉄樹の口述のように映ってしまう。また、この伝記は、
       歴史的事実と出来事に関して曖昧かつ不正確なところが多く、読む時に注意が必要である。

(6) 1881年(明治14)、宮内省に勲功調査局が新設され、維新の功労者に勲賞を与えることになった。この
       時に、該当する人々に勲功履歴を提出させたが、山岡鉄舟と高橋泥舟だけが提出しなかった(思想の
       科学研究会編『共同研究 明治維新』、徳間書店、1967年、378頁)。

(7) 前掲注 (5) 『おれの師匠』146頁。

(8) 『おれの師匠』を含め、山岡鉄舟のほとんどの伝記資料には松岡万がその同志と門弟として描かれてい
       るが、松岡は山岡の門弟ではなかったという見方もある。たとえば、浅野サタ子は「門人以外に、鉄舟の
       下に出入りする者も多かった。戊辰の役のさい、鉄舟とともに活躍した徳川旗本の村上政忠、松岡萬
       云々」としている(浅野サタ子『史談無刀流 山岡鉄舟と弟子 元治郎』、宝文館出版、1970年、98頁)。

(9) 村上康正『一刀正伝無刀流開祖 山岡鉄太郎先生年譜』1999年、189-191頁。国立国会図書館所蔵。

(10) 山岡鉄舟『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』出版人 大森方綱、1882年。国立国会図書館
         所蔵。

(11) 覚王院義観(1823-1869)は江戸上野の天台宗東叡山真如院住職、輪王寺宮の執当。1868年(慶応
         4)能久親王とともに新政府軍に徳川家の救済を嘆願したが、失敗して、主戦論に転ずる。上野戦争に
         敗れ、会津、仙台へと逃れたが、捕らえられ、1869年(明治2)2月26日東京の獄中で病死した。

(12) 山岡鉄舟が宮内省を辞した1882年(明治15)に、井上馨が勅使として勲三等を持参して山岡がこれを
         拒絶したシーンを山岡の内弟子小倉鉄樹が目撃し、後に口述している(前掲注 (5) 『おれの師匠』228-
         235頁)。また、山岡鉄舟による勲三等辞退の事実は1882年(明治15)6月27日付けの『雪の夜話り』
         新聞に記載された「山岡鉄太郎 ;叙勲を拝辞す」という記事でも確認できる。

(13) 安部正人が編纂した山岡鉄舟関係書物の問題性、また安部正人の執筆活動全体の問題性について、
         拙稿「山岡鉄舟の随筆と講話記録について」を参照(『千葉大学 日本文化論叢』7、2006年)。

(14) 前掲注 (1) 「江戸城明渡しの一考察」(一)129頁。

(15) 例えば、河崎顕了『偉人の行蹟』(法蔵舘、1916年)9-11頁/谷田左一『山岡鉄舟の生涯』(忠誠堂、
         1926年)107-113頁/葛生能久『高士山岡鉄舟』(黒竜会出版部、1929年)235-244頁/頭山満
         『幕末三舟伝』(大日本雄弁会講談社、1930年)165-170頁/高橋淡水『近世英傑叢書 勝海舟と
         山岡鉄舟』(元文社、1932年)163-168頁/平泉澄『首丘の人 大西郷』(原書房、1986年)69頁。
         葛生能久『高士山岡鉄舟』を除いて、上記の書物には「戊辰の変余が報国の端緒」という題名はない
         が、その内容が明らかに引用されている。


(16) 徳富猪一郎『近世日本国民史』、第68巻(明治天皇御宇史七)、官軍東下篇(時事通信社出版局内 
         近世日本国民史刊行会、1963年)270頁。

(17) 前掲注 (5) 『山岡鉄舟の一生』147頁。

(18) 安部正人によると、籠手田安定は「随筆」を「蒐集」し、籠手田が「筆録」したのは『武士道』所収の「講話
         記録」である。小倉鉄樹は両方を勘違いしている。安部正人編『鉄舟随筆』(光融館、1903年)凡例
         1頁。山岡鉄舟口述、勝海舟評論、安部正人編『武士道』(光融館、1902年)6-7頁。

(19) 前掲注 (5) 『おれの師匠』133頁。

(20) 三田村鳶魚(1870-1952)は江戸の風俗・文学の研究者。

(21) 前掲注 (5) 『おれの師匠』4頁、146頁。

(22) 安部正人編『鉄舟夫人英子談話 女士道』(大学館、1903年)22-25頁の頭注。

(23) 前掲注 (5) 『おれの師匠』133頁。

(24) 勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編『勝海舟全集』、第19巻〔海舟日記II〕(勁草書房、1973年)
         43-44頁。



 
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