牛山栄治が編纂した山岡鉄舟の伝記について


Anshin(アンシン)  Anatoliy(アナトーリー)  著

千葉大学文学部日本文化学会編 『千葉大学 日本文化論叢』、第8号、2007年7月




凡例

- 本論文の史料のために引用を行った際、旧字を常用漢字に、句読点を現代表記に改め
  た。歴史的仮名遣い、捨て仮 名、濁音の表記は改めていない。

- 引用文中の傍点は原文のものである。

- 敬称は一切省略した。


  本論文は、日露青年交流センターの助成による研究成果の一部である。

  尚、本論文を含め、山岡鉄舟研究を進めるにあたっては、大東流合気柔術本部長、近藤勝
  之氏より貴重な史資料の提供および御教示を得た。特に記して、感謝の意を表したい。




はじめに

    明治末期に生没年も経歴も、その人となりも、良く分からない安部正人なる人物が山岡鉄舟の講話記録とされた『武士道』(光融館、1902年)、山岡直筆とされた『鉄舟随筆』(光融館、1903年)などを世に出したが、現在でも大東出版社、角川書店、国書刊行会から繰り返し出版されているこれらの書物(『鉄舟随筆』は『鉄舟言行録』、更に『鉄舟随感録』という題目に変わった)は、山岡と無縁なものであり、安部正人による創作であることを既に述べた(1)。その事実が広く知られておらず、様々なバージョンで出回っている山岡鉄舟の「武士道論」と「随筆」は、山岡鉄舟の虚像を作り上げ、山岡鉄舟、あるいは武士道に興味を持っている多くの人に既に一世紀にわたって誤解を与え続けている。

    山岡鉄舟自身は勝海舟のように自分の意見、考えを多数の書物として書き残し、語り残していないので、その全貌を生の史料によって知ることが出来ない(2)。その実像を窺える確実な二次資料も少なく、村上康正著『一刀正伝無刀流開祖 山岡鉄太郎先生年譜』(村上康正発行、1999年)を除いてこのような史料を本格的に掘り起こす試みがこれまでにはなかったのである。これが、山岡が幕末・明治初期に日本の歴史に大きな足跡を残し、しかも日本の最高統治者、徳川慶喜と明治天皇に尽くしたにもかかわらず、山岡についての学問的な研究が行なわれてこなかった大きな原因の一つである。もう一つの原因は、山岡の人格にあった。山岡は、自分の功績を表に一切出さず、常に陰に隠れるという主義の人であったので、その事績が必然的に研究者に見逃されてしまったと言える(3)

    その一方、山岡鉄舟について多くの伝記と小説が出版されている。とりわけ、伝記の場合は、参考文献の信憑性に関する確認作業が全く見られず、著者の想像力が大分加えられ、剣禅一如論などに偏り、山岡を超人的な存在に祭り上げる傾向にあるので山岡の実像がかなり歪められている。

    それらの書物と対照的に、一般世間で山岡鉄舟の唯一の正伝とされてきた牛山栄治編『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』(春風館、1937年。以下、『おれの師匠』と略)、がひときわ目立つ。この伝記全体の内容は、長い間山岡の内弟子であった小倉鉄樹(てつじゅ)の口述という形式を取っているので、山岡についての最も正確な情報源として扱われ、その内容に対して、これまで疑義が持たれなかったのである。しかし、後述するように『おれの師匠』の成立過程には、いくつかの大きな問題点があった。本稿は、これらの問題点を浮き彫りにするとともに、この伝記に対する認識を根本的に正すことを課題とし、山岡鉄舟研究のための基盤を作り上げることに向けての作業の一環である。


一 小倉鉄樹の履歴

    『おれの師匠』の内容は、山岡の内弟子小倉鉄樹が口述し、石津寛・牛山栄治がその口述を手記・編纂した。山岡に身近な人の中で、彼についての回想を公にしているのは、山岡の弟子柳多元治郎と香川善治郎を除いては、小倉鉄樹だけであろう(4)。ここで、先ず小倉の履歴を紹介しよう(ただし、その口述が手記された明治末期頃までとする)。

    小倉鉄樹(1865-1944)は本名が渡辺伊三郎、新潟県西頸城郡青海村の生まれである。16歳の時、軍人を志望して東京に出、開成学校に入学するために神田淡路町の共立学校に入って洋学を学んだが、身長が低いので不合格になり、止むなく二松学舎に入って、漢学を学んだ。山岡鉄舟の剣術道場について知り、山岡を四谷の私邸に訪ね、内弟子として入門を希望した。小倉の回想によると

        大鉄舟を四谷の道場に訪ねて、内弟子として入門させてもらいたいと願い出た
        が、にべもなく断わられてなかなか許してくれない。軍人志望が挫折して破れ
        かぶれの気持もあって、この上は門前で死んでやろうと決心して玄関先に座り
        こみ、飲まず喰わずで一週間も頑張った。 ((ママ)) 正月になろうとするときで、寒さ
        は寒し、道場の者は一向にとりあってくれそうにもない。絶対絶命においこまれ、
        ふらふらになってしまった。そのときになってやっと鉄舟もおれの強情を認めて
        くれたのか入門が許されたよ。 ( (ママ)) 本当に泣けてしまった。明治十四年十二月
        三十一日だった

と口述している(5)。しかし、郷里を出てきた伊三郎少年にとっては、山岡道場の徹底した精神修行に終始する教育の真意がつかみとれず、これでは徒らに身体を疲労するばかりで、毎日を空費しているにすぎないと思うようになり、せっかく入門が許された道場生活も慣れるにつれて、あせり心になってきた。山岡鉄舟を論破するつもりで千葉県から出てきて、いつか弟子となってしまった陽明学者の山崎天遊なる人物のそそのかしもあり、伊三郎は山岡道場を密かに出て、東海道を学問修行に旅立ったのである。最初の目的通り、京都では漢学者の草葉船山、菊池三渓、大阪では五十川訊堂ら、当時名声をとどろかしていた大学者を歴訪して教えを乞うたが、早くも失望し、東京に戻った。この脱走が許されて、伊三郎が山岡道場に復帰した頃は、山岡は宮内省を辞して、自ら創始した無刀流剣術の指導に専念するようになり、道場を「春風館」と名付けていた。

    山岡鉄舟の道場に起居すること4年の後、1886年(明治19)2月頃、伊三郎少年は山岡から「鉄樹」の号を授かり、さらに3年間京都にある円福寺僧堂の伽山老師の下に禅の修行に専念するよう命じられ、3年間が経たないうちに山岡の道場に戻ることを禁じられた。その2年半後、1888年(明治21)7月19日に山岡鉄舟が没したので、鉄樹は師匠と再会できなかった。山岡の没後、鉄樹は、伽山老師の下に禅の修行を続け、また当時の名僧滴水、毒潭、潭海、峨山などを歴訪している。1894年(明治27)に日清戦争が始まった時、鉄樹は第三師団の軍夫に応募し、百人長という人夫頭で渡満した。日清戦争の後、鉄樹は神戸の実業家小倉庄之助の養嗣子となり、その娘ちか子と結婚した。鉄樹が小倉姓を名乗るようになったのはこの時からで、鉄樹が34歳の時であった。

    小倉家は当時没落していたので、鉄樹はしばらく養家の復興をもくろみ、経済方面で活動しようとの意欲もあったようだが、妻ちか子が、結婚僅かに2年後他界するに及んで、この考えも挫折した。鉄樹は、終に専ら禅道に精進するに至った。 鉄樹が関西を出て、鎌倉に巡遊したのは1908年(明治41)のことである。その頃の鉄樹の仮寓は円覚寺内仏日庵であったが、間もなく正伝庵に移って、1912年(明治45)までここに滞留し来訪する青少年に対して禅の指導を行った(6)


二 『おれの師匠』の成立

    鎌倉の円覚寺で数年間にわたって小倉鉄樹の指導を受け、その口述を手記したのは後に医学博士となった石津寛(1884-1936)である。石津は第一号の弟子として鉄樹の側にいて、その日常の片言隻句も、漏らさずに記録していた(7)。当時、この手記は、講談社の雑誌『現代』と『雄弁』に「おれの師匠」と題する山岡鉄舟談として連載されたと言われる(8)。このほかにも石津は講談社の雑誌『キング』に小倉鉄樹との対談という形で、山岡の春風館道場における修行などを2-3回掲載した。石津寛は、雑誌『キング』に掲載された小倉の談話を未発表の分と共に小倉の校閲を得て、「二十余年前予鉄樹老人と鎌倉に在り、親炙して其の風貌に接すること三年、時々其の見聞するところを記して自家啓蒙の資とせるもの積んで数寸」(9) という序言を入れ、1933年(昭和8)に『鎌倉夜話』として刊行した。小倉の口述には山岡鉄舟に関する回想が特に多かったため、石津寛は『鎌倉夜話』編纂の際、小倉の山岡鉄舟談を分離し、後日さらに原稿を整えて、これを一冊とし『おれの師匠』と題して出版するという計画を立てた。『鎌倉夜話』には『おれの師匠』の発表予告が載せられたが、1936年(昭和11)に石津は突然病に倒れ、間もなく他界したためこの計画を実現できなかった。

    小倉鉄樹の第一の高弟であった石津寛の没後、石津と同時期の小倉の弟子で、後に全国高校長会長、日本大学の教授と人事部長、日本青少年連盟理事、群馬女子短期大学名誉学長などを歴任した牛山栄治(1899-1979)が、石津の「おれの師匠」の草稿(400字詰めの原稿用紙349枚)をその徳子未亡人に借り受け、出版の承諾をもらい、原稿の整理に取り組んだ。牛山は、この原稿の整理過程の中でいくつかの困難に遭った。一つには、石津寛の原稿は未定稿で、多くの事実については将来に調査を行うことを想定したので仮の記述をし、あるいは空欄を残したため、それらに関して調査を行い、訂正を加え、空欄も埋めなければならなかったのである。更には、石津は小倉の談話を残らず書き留めて、そのなかに山岡鉄舟の風貌が多少見えても、山岡の事蹟に関して筆を全く染めなかった箇所も多く、一冊の伝記として不十分であった。これを出版するために更に未詳の箇所を補う必要があった。その時点で牛山栄治は既に20年(10) にわたって小倉の弟子となっており、しかも山岡鉄舟の孫、山岡龍雄が牛山の許に置かれて数年間その面倒を見ることもあり、山岡鉄舟の遺族と交際の機会に恵まれた。さらに、小倉を通じて山岡鉄舟の門下であった松岡万(11) と桑原千末太の手記を松岡と桑原の遺族に借覧することも出来た。小倉から聞き書きを追加し、また各種の資料を渉猟して、補充した結果、原稿420枚を石津の原稿に書き加え、1937年(昭和12)に『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』として世に出したのである(12)

    5年後、1942年(昭和17)に『おれの師匠』は『おれが師匠 山岡鉄舟を語る』という題名(以下、『山岡鉄舟を語る』と略)で再び出版された。『おれの師匠』の増補版と言えるが、『おれの師匠』と『山岡鉄舟を語る』を比較したところ、所々文章に多少の違いが見られるものの、目次の順序以外に両伝記の間に大きな違いはないという結論に達し、ここで両方を同じ伝記として見なすことにする(『おれの師匠』よりも『山岡鉄舟を語る』の章立ての方が山岡鉄舟の生涯を順序よく追っている)。

    なお、小倉鉄樹の回想談と言えば、佐倉孫三が山岡の没5年後著した最初の本格的な山岡伝記『山岡鉄舟伝』(普及舎、1893年)(13) に言及する必要がある。佐倉孫三(1861-?)は、小倉鉄樹と一緒に二松学舎で学び、小倉の友人であった。小倉が学問修行のために山岡の剣術道場を脱出した時、彼と一緒に関西に赴いたのはこの佐倉孫三である(14)。佐倉は、山岡と多少の面識もあった(15)

    『おれの師匠』と『山岡鉄舟伝』の内容には、偶然と思えない共通点が沢山ある(16)。その理由は、次の小倉口述から明らかになる。

        おれ(●●)はよく見ぬが、佐倉(孫三氏)が師匠の死後間もなく「山岡鉄舟伝」(明治
        二十六年五月神田普及舎発行)と云ふのを出してゐる。俺が師匠
        (山岡鉄舟・引用者注)の死後谷中の家に家政整理に行つて居つた頃、佐倉
        は牛込で警部をしてゐたが、其の頃俺がした話を集めたものであるから信用
        は出来る筈だが、此の間誰か来て、多少俺の話とは違つてゐると言つて居た(17)

つまり、両伝記の情報源はともに小倉なので、その内容に共通点があるということは、当然である。そして、『山岡鉄舟伝』の内容が小倉の話と「違つている」訳は、佐倉が小倉鉄樹だけでなく、山岡鉄舟周辺の人々から得た情報をこの伝記に加えたことにある。これは、佐倉が『山岡鉄舟伝』の自序で「頃者、公(山岡鉄舟・引用者注)ノ夫人、及其義兄ナル高橋泥舟翁等ニ就キ、其行事ヲ蒐輯シ、以テ之ヲ世ノ同シク公ヲ仰慕スル人ニ頒タントス」(18) と書いている通りである。しかし、上記の小倉口述から分かるように小倉は、佐倉が編纂した伝記を良しとしなかった。筆者も『山岡鉄舟伝』には、山岡鉄舟の生涯の事実に関する間違いが多いことを確認している(19)




三 『おれの師匠』の問題点

    『おれの師匠』の小倉鉄樹回想談は、山岡鉄舟に関する学問的な研究のための好材料のように見えるが、『おれの師匠』の内容をその前に出版された山岡伝記と照らし合わせてみるといくつかの問題点が出てくる。上述した通り、牛山栄治は、『おれの師匠』を編纂するにあたって小倉鉄樹の口述以外にも様々な資料を使い、その内容と構成に安部正人『鉄舟言行録』(光融館、1907年)、円山牧田『鉄舟居士乃真面目』(全生庵、1918年)、葛生能久『高士山岡鉄舟』(黒竜会出版部、1929年)などが影響している(20)。『おれの師匠』の最も大きな欠陥は、牛山栄治が上記の文献からほとんどそっくりの引用を行い、出典を全く示さなかったので全てが小倉鉄樹の口述のように映ってしまうことである。特に、山岡鉄舟直筆とされた「宇宙と人間」、「修身二十則」などの作品については、安部正人なる人物が明治末期に著した創作からの引用をしている点が問題である。小倉自身は『おれの師匠』のなかで、

        安部と云ふ人の「鉄舟言行録」と云ふ書物には、大分師匠自叙の記録といふ
        のが載つてゐるが、よく見れば師匠の文とは違ひ、又云ふことにも師匠の意見
        とも思はれぬふしぶしが多いので俺は信用せぬ(21)

と語っているにも関わらず、同じ『おれの師匠』に安部正人『鉄舟言行録』からの引用が挿入されているという矛盾が見られる。『おれの師匠』の緒言には牛山栄治が「幾度か鎌倉鉄樹庵に老人(小倉鉄樹・引用者注)を訪ね、其直接の談話ならざる箇所は訂正を乞」うた(22) と述べているので、この矛盾は、小倉が、『おれの師匠』に見える安部正人書物からの引用をある程度妥当なものとして認めたことで説明できよう。

    『おれの師匠』の山岡鉄舟の晩年と臨終に関する内容も同じである。小倉は、山岡に3年間京都で禅の修行を命ぜられ、山岡の病重しと聞いて駈けつけたが「三年の期日の前、中道で帰るとはもっての外」と面会を許されなかった(23)。したがって、晩年と臨終の模様などは小倉の知るよしもないことで、この項は、内弟子として山岡の最期の日まで側近に仕えた桑原千末太の手記を、牛山が小倉を通じて桑原の未亡人から借り受け、その資料によったものであった。山岡の晩年と臨終に関して、『おれの師匠』の緒言と5頁には、桑原千末太の記録によっていると断ってあるが、本文の当該項目にそれを明示しなかったため、小倉の口述のように混同されてしまう(24)

    『おれの師匠』のもう一つの問題点は、小倉鉄樹自身の口述には山岡鉄舟に対する少なからぬ先入観があり(25)、様々な事実の時期と経過が明確に述べられないことが多く、史実と山岡の生涯における出来事に関する勘違いも見られる(26)


四 牛山栄治が残した問題

    牛山栄治は山岡鉄舟の伝記を最も多く著した人物である。あわせて6冊があり、『おれの師匠』と『山岡鉄舟を語る』の他に、『山岡鉄舟伝』(日本青年館、1942年)、『山岡鉄舟の一生』(春風館、1967年)、『山岡鉄舟 春風館道場の人々』(新人物往来社、1974年)、『定本 山岡鉄舟』(新人物往来社、1976年)が牛山の筆によるものである。しかし、この4冊には、新しく追加された小倉鉄樹の口述が少なく、牛山自身のコメントと解釈が加えられているのみで、山岡について新しい情報をそれほど得ることが出来ない。小倉の口述と外部資料からの引用の混同、歴史的事実の間違い、叙述の曖昧さなどの問題点が相変わらずこの4冊にも残っている。更に、例えば『山岡鉄舟の一生』は『おれの師匠』の改訂版であるが、その旨が跋にしか書かれず、著者名と題名が『おれの師匠』と全く違うので、これは牛山栄治の著作で、『おれの師匠』とは別の伝記であるという勘違いを招いている。また、『定本 山岡鉄舟』について牛山は

        定本というと、世上の文献や異説を校合し尽くした標準となる正しい本を意味
        するのであろうが、私はそんな大それた考えはもっていない。新人物往来社の
        出版企画に乗ったことと、あくまで私の気持の上での「定本」としたまでである(27)

と書いてある。つまり、『定本 山岡鉄舟』は厳密な意味での「定本」ではないのである。

    山岡鉄舟について数多くの書物を世に出した牛山栄治であるが、大学教授でありながら山岡鉄舟の学問的な研究に踏み切ることなく、山岡について学術的論文を一度も出していないことも疑問に思わざるを得ない。その理由は、牛山が持っていた山岡関連史資料が、資料批判の面で学問的な研究の基準に満たなかったことにあるのではないかと思う。

    『おれの師匠』の緒言に牛山は次のように書いている。

        従来巷間に流布さるる鉄舟伝は数十冊に及ぶ。余之を通覧するに、其の全部
        が全く鉄舟先生を知らざる人の著述なれば、記述の多くは真を失ひ、鉄舟先生
        の風貌を知るに由なきもののみあり(28)

つまり、牛山が『おれの師匠』を編纂する動機は、先輩石津寛の事業を完成するだけでなく、従来の山岡鉄舟の伝記と違って、山岡を良く知っていた人(小倉鉄樹)の回想のもとに山岡の正しい伝記を世に出すことであったということが上記の緒言の言葉から窺われる。そのためにこの伝記の副題は「山岡鉄舟先生正伝」となっている。しかし、結果として、牛山の元々の意図と反対に、『おれの師匠』をはじめ、彼が重ねて著した山岡鉄舟の伝記は曖昧かつ不正確な所が多く、小倉鉄樹の回想談と他の資料からの引用が混同され、「正伝」という形から程遠いものになってしまっている(29)


 終わりに

    既に上述した通り、山岡鉄舟について多くの伝記と小説が出版されているが、そのなかで山岡鉄舟という「偉人」を崇拝する傾向が強く、山岡の実像が数多くの逸話と伝説に埋もれている。伝記などの史資料を通じて歴史的人物の実像が正確に伝わるどころか、かえって歪められるのは、山岡鉄舟に限った話ではない。勝海舟の心酔者であった吉本襄が勝海舟の『氷川清話』を改竄した(30) 例も有名であり、その他、史料と伝記の改竄・粉飾などの手段をもって古代・中世の武将、明治維新に活躍した東西両軍の武士、さらに乃木希典をはじめ、明治時代に現れた明治政府の要人の英雄化と美化が、明治・大正・昭和初期時代の大衆文化における一つの現象であり、その背景には、富国強兵の政策を伴う「軍人勅諭」の発布、新しい武士道の昂
(31) などがあった。

    牛山栄治が『おれの師匠』を編纂するにあたって、意図的に改竄・粉飾をなしたとは決して思われないが、その編集方針と手続きに不行届きがあり、上記で取り上げた『おれの師匠』の問題点は、その「正伝」としての信憑性を疑う余地を与えている。その一方、『おれの師匠』に出ている小倉鉄樹の口述は、山岡鉄舟と4年間にわたって寝食を共にしていた人物のものであり、このような口述は他に存在しないことも忘れてはならない。そもそも、小倉は、1881年(明治14)12月から山岡鉄舟が没した1888年(明治21)7月まで、凡そ6年間半にわたって山岡の内弟子であった(32)。山岡の内弟子の生活は、家宅と道場の掃除、炊事、食事中の山岡への給仕など、多岐にわたり、小倉の場合は、本格的に剣術の稽古に入った時に一切の家事を免除されたが、とにかくほとんどの時間を山岡の家宅と道場で過ごし、また山岡の没後、山岡の夫人英子(ふさこ)が家政整理のため小倉を京都から呼び出している事実を見ると小倉は山岡家からかなりの信頼を受けていたということが分かる(33)

    上記の事実を考慮に入れると、オリジナルの形に最も近いと思われる小倉鉄樹の口述が含まれているので、牛山栄治が編纂した山岡伝記、とりわけ『おれの師匠』は山岡鉄舟の学問的な研究にとって、二次資料的な価値は十分にあると言える。ただ、ここで問題になるのは、小倉鉄樹が直接に口述した内容と小倉の口述と混同されている引用の見分けである。牛山が出典を明記し、小倉の口述でないと直ぐ分かる所もあるが、反対に一見では、小倉の口述か、引用か、見当が付かない所も多い。とはいえ、少なくとも、小倉が自分自身で「聞いた」・「見た」などのようにはっきり述べている場面は、間違いなく小倉の目撃談であり、1882年(明治15)に山岡鉄舟が宮内省を辞した頃、小倉が聞いた勲三等の辞退を巡る山岡と井上(かおる)の論争は、その好例の一つである(34)。これまで歴史の陰に隠れ、後世にほぼ忘れられた山岡鉄舟の素顔と事績を探るために『おれの師匠』収録の小倉鉄樹の回想談が不可欠なものと考える(しかし、その談話が、牛山栄治によって編纂されたものであり、一部に曖昧な部分を含んでいるという事情を十分に踏まえて用いる必要があるであろう)。





(1) 安部正人が編纂した山岡鉄舟関係書物の問題性、また安部正人の執筆活動全体の問題性について、
       拙稿「山岡鉄舟の随筆と講話記録について」を参照(『千葉大学 日本文化論叢』、第7号、2006年
       6月)。

(2) 山岡鉄舟が残した数少ない一次史料には、江戸無血開城前後の経緯についての始末書「慶応戊辰三
       月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(1882年)および山岡が覚王院義観に彰義隊の解散
       を力説したことについての始末書「慶応戊辰四月東叡山ニ屯集スル彰義隊及諸隊ヲ解散セシムベキ
       上使トシテ赴キ覚王院ト論議ノ記」(1883年)がある(両方とも、山岡が1883年(明治16)に建立した
       全生庵に保存されている)。これらの始末書については、拙稿「山岡鉄舟が書いた江戸無血開城の始末
       書」を参照(『日本歴史』、第708号、2007年5月)。さらに、山岡は、剣術、仏教など、特定分野に関わる
       文書を残しているが、これらの文書から彼の生涯あるいは事績について特に情報が得られない。なお、
       書道の流派・入木道の第52世を継承した山岡が、膨大な枚数の遺墨を残している。日本書道の遺産と
       して現在でも高く評価されているこれらの遺墨は、山岡の思想を究明するために間接的な手かがりとし
       て使用できると思われる(ただし、偽物が沢山はびこっているので、注意が必要である)。山岡の遺墨を
       書道の観点から検討している寺山葛常の著作も参照(『鉄舟と書道 ― 書美の本質とその深化』、
       巌南堂書店、1977年。『三舟及び南洲の書』、巌南堂書店、1988年)。

(3) 山岡が、1881年(明治14)に明治政府が行なった維新勲功調査の時に賞勲局への書類提出を拒否した
       こと、1882年(明治15)6月に井上馨が勅使として持参した勲三等を拒絶したことが山岡の主義を表す好
       例である(牛山栄治編『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、春風館、1937年、151頁、228-235頁。思想
       の科学研究会編『共同研究 明治維新』、徳間書店、1967年、378頁。『雪の夜話り』新聞、明治15年
       6月27日、「山岡鉄太郎 叙勲を拝辞す」)。

(4) 柳多元治郎の養女浅野サタ子が著わした『史談無刀流 山岡鉄舟と弟子 元治郎』(宝文館出版、1970
       年)、香川善治郎の「覚書」(玉川図書館附属近世資料館所蔵「春風館文庫」所収)には両弟子による
       山岡鉄舟についての回想談があるが、かなり断片的で、そのほとんどが山岡の春風館道場における修
       行についての思い出であり、山岡鉄舟の生涯に関する情報が限られている。なお、安部正人編『鉄舟夫
       人英子談話 女士道』(大学館、1903年)には、山岡鉄舟の未亡人英子による回相談が記載されている
       が、その出処が疑わしい(注 (1) も参照)。

(5) 牛山栄治『山岡鉄舟の一生』、春風館、1967年、458頁。

(6) 『おれの師匠』、牛山栄治の緒言3-4頁、本文241-244頁。前掲『山岡鉄舟の一生』、447-454頁。牛山栄
       治『山岡鉄舟 春風館道場の人々』、新人物往来社、1974年、201-202頁。

(7) 『小倉鉄樹先生』、小倉鉄樹師顕彰会、1989年、252頁。牛山栄治は「その小倉先生の話を、石津寛さ
       んは弟子としてそばにいて、医者でしたから、薬を包む紙なんかに、小倉先生が何か話し出すと鉛筆で
       ササッと書く。鼻紙や新聞紙のはし、煙草の箱などにもメモする」と回想している(同、187頁)。

(8) 牛山栄治編『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、小倉鉄樹師顕彰会、1989年、「復刻版刊行を喜ぶ」。

(9) 小倉鉄樹炉話、石津寛手記『鎌倉夜話』、牛山堂書店、1933年、序1頁。

(10) 前掲『小倉鉄樹先生』、185頁。牛山栄治は1917年(大正6)から小倉鉄樹が没する1944年(昭和19)
         まで合せて27年間その弟子であった。

(11) 『おれの師匠』を含め、山岡鉄舟のほとんどの伝記には松岡万がその同志と門弟として描かれている
         が、松岡は山岡の門弟ではなかったという見方もある。たとえば、浅野サタ子は「門人以外に、鉄舟の
         下に出入りする者も多かった。戊辰の役のさい、鉄舟とともに活躍した徳川旗本の村上政忠、松岡萬
         云々」としている(前掲『史談無刀流 山岡鉄舟と弟子 元治郎』、98頁)。

(12) 『おれの師匠』、牛山栄治の緒言8-10頁。前掲『小倉鉄樹先生』、31頁。前掲『山岡鉄舟の一生』、
         510頁。

(13) 山岡鉄舟の最初の伝記は、その没1年後、非売品として刊行された荻野独園著『山岡鉄舟居士伝』
         (荻野独園発行、1889年)である。荻野独園(1819-1895)は、京都相国寺の管長を務め、山岡の
         禅の師匠であった。この伝記は荻野独園著『近世禅林僧宝伝』(小川多左衛門出版、1890年)にも
         収録されているが、それは廃仏時代における山岡の寺院再興への尽力と「居士」としての修行の程
         度を物語っている。『山岡鉄舟居士伝』は、山岡鉄舟の最初の伝記ではあるが、その文書が短く、漢
         文の内容が碑文に相応しいと言える。

(14) 後に、佐倉孫三は二松学舎の教授を務めたこともあり、「達山」と号した。『おれの師匠』、1頁、243頁。

(15) その事実は『山岡鉄舟伝』の文脈から窺われる。例えば、佐倉は、山岡の実家小野家に由緒のあるお
         寺の鐘などが維新の際、売却されたことを山岡に告げたことがあった。「其由を先生(山岡鉄舟・引用
         者注)に告るに大に怒り、金円は何程にても出す故、買戻候様可懸合旨により予雖及談判最早消て不
         有、遺憾の一にして忘るゝに期なし」と佐倉が述べている。佐倉孫三『山岡鉄舟伝』、普及舎、1893年、
         5頁。

(16) 例えば、佐倉孫三『山岡鉄舟伝』の66-70頁と『おれの師匠』の228-237頁を参照。

(17) 『おれの師匠』、3頁。この小倉の口述には、言い違いあるいは記憶違いがある。その当時、山岡家の
         邸宅は谷中ではなく、四谷にあった。谷中には山岡鉄舟が1883年(明治16)に建立した全生庵が
         ある。

(18) 前掲『山岡鉄舟伝』、自序より。

(19) 例えば、山岡鉄舟の忠勤振りを物語る1873年(明治6)に起きた皇宮炎上と1878年(明治11)に起きた
         竹橋事件が佐倉孫三『山岡鉄舟伝』で間違えられている。さらに、山岡の少年時代について、少年鉄
         舟が飛騨高山に父と一緒に行って、そこで「飛州に赴てより、井上清虎佐州より遊歴の際門弟となり、
         真影流の剣法と甲州流の兵学とを兼学し、頗る得る所あり」と書いてあるが、井上清虎は、実際には
         千葉周作の玄武館道場の師範であり、北辰一刀流を教えていた。また、少年鉄舟が飛騨高山から江
         戸に戻るきっかけとなったのは父母の死であるが、『山岡鉄舟伝』には、父母が在世のうちに剣術の修
         行のために江戸に帰ったと書いてある。前掲『山岡鉄舟伝』、1頁、64頁。『おれの師匠』、191頁。

(20) 例えば、『おれの師匠』の107-108頁と『鉄舟居士乃真面目』の11頁、『おれの師匠』の104-106頁と『鉄
         舟言行録』の114-116頁を参照。1929年(昭和4)に出版された葛生能久『高士山岡鉄舟』とその8年後
         に出版された『おれの師匠』の章名・項名の間にも偶然と思えない共通性が見られる。

(21) 『おれの師匠』、3-4頁。

(22) 同、牛山栄治による緒言10頁。

(23) 同、5-6頁。

(24) 牛山栄治編『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、小倉鉄樹師顕彰会、1989年、「復刻版刊行を喜ぶ」。
         『おれの師匠』、5-6頁。

(25) 小倉の山岡鉄舟に対する先入観と言えば、暴飲暴食・色情修行など、常識を脅かす山岡の言動を
         「偉人の表れ」として肯定的に扱うことである。小倉に限らず、このような山岡の言動はほとんどの山
         岡関係文献で同様に扱われている。管見に入った範囲では、「ほめたことではない」と言っているの
         は、大森曹玄のみである(大森曹玄『山岡鉄舟』、春秋社、1970年、211頁)。ただし、山岡の放蕩が
         いつ頃のものかを確認出来る史料は一切ない。鎌倉円覚寺の管長、今北洪川が「殊鋭意禅学。頗
         得道骨。寔天下之達忠也」と山岡を高く評価した事実を見ても、山岡は、放蕩を決して良しとしない
         禅道において、極めて高い心境に達していたことが明らかであり、また彼は、一生、武士としての潔
         白な精神を貫いたので、その放蕩がどこまで真実かが依然として不明である(『蒼龍広録』、東海玄
         虎、1892年、巻2、35葉)。

(26) たとえば『おれの師匠』11頁に「井上清虎は其の後まで高山に残り、山岡家の後始末等をし、九月二日
         江戸に帰った」とあるが、これは山岡鉄舟がまだ小野姓を名乗り、山岡静山とその家族に出会っていな
         い時代の話で、ここの「山岡家」は「小野家」でなければならない。また、同216頁に、山岡の年齢は宮
         内省を辞した1882年(明治15)に51歳であったと書いてあるが、1836年(天保7)の生まれなので、実
         際には46歳であった。

(27) 牛山栄治『定本 山岡鉄舟』、新人物往来社、1976年、211-213頁。

(28) 『おれの師匠』、牛山栄治の緒言10頁。

(29) 晩年の牛山もこれに気が付き、『定本 山岡鉄舟』の執筆動機について、「私は山岡鉄舟に私淑し、何
         度かその伝記を上梓しました。(中略)しかし、発行後月日が経つにつれ、誤謬や、表現の不適当なと
         ころが目についてきて、だんだんやりきれない気持になり、はじめから書きあらためることにし」たと書
         いている(『定本 山岡鉄舟』の袖)。しかし、既に見てきた通り、牛山の『定本 山岡鉄舟』は、本当の
         意味での「定本」ではなく、あくまでも彼の「気持」を表すものにすぎない。

(30) 『氷川清話』は、勝海舟が晩年に語ったものを編集したものであるが、中には勝の記憶違いや彼一流
         の法螺などがあり、史実とのずれが見受けられる。また、『氷川清話』が最初に世に広められたのは
         吉本襄の編集によるものであったが、編集の過程において海舟の真意が歪曲され、また改竄著しい
         との理由で、江藤淳と松浦玲に徹底的に洗い直され、再編集された。(勝海舟/江藤淳・松浦玲編
         『氷川清話』、講談社、2000年、3-7頁、381-389頁)。

(31) 明治時代に現れた新しい武士道について佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』、日本放送出
         版協会、2004年・菅野覚明『武士道の逆襲』、講談社、2004年を参照。

(32) 『おれの師匠』、241頁、253頁。小倉鉄樹の回想によると彼が1881年(明治14)12月31日に山岡鉄舟
         の内弟子となった。これはまだ正式な入門ではなかったが、牛山栄治『山岡鉄舟の一生』の245頁によ
         れば、小倉鉄樹が門弟名簿に正式に登載されたのは1882年(明治15)9月3日だった。

(33) 前掲『鎌倉夜話』、222-223頁。『おれの師匠』、3頁、241頁、245頁。また、小倉自身も「おれは大抵
         師匠の傍に居て用を足してゐた」というふうに回想している(『おれの師匠』、413頁)。

(34) 『おれの師匠』、228-237頁。小倉が聞いた山岡と井上馨の論争が山岡が江戸無血開城の時に果たし
         た役割の重要性に対する再認識をもたらすと考えられる(注(2)も参照)。



 
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