山岡鉄舟の随筆と講話記録について
Anshin
Anatoliy 著
千葉大学文学部日本文化学会編 『千葉大学 日本文化論叢』、第7号、2006年6月、104-92頁
凡例
- 本論文のために引用を行った際、旧字を常用漢字に、捨て仮名を小さい字に、句読点を現代表
記に改め、必要と思われるところに振り仮名を付した。歴史的仮名遣い、変体仮名、濁音の表記
は改めていない。
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- 引用文中の単語の前に入れたスペースは、「欠字」の意味である。例: 「我が 皇祖 皇宗」。
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- 敬称は一切省略した。
なお、本論文は、日露青年交流センターの助成による研究成果の一部である。
一 はじめに
明治30年代に「幕末の三舟」について数多くの著作を著した人物に安部正人(生没年不明)がいる。勝海舟については『海舟先生精神修養談』(1902)、高橋泥舟については『泥舟遺稿』(1903)、山岡鉄舟関連著作は『武士道』(1902)、『鉄舟夫人英子談話 女士道』(1903)、『鉄舟随筆』(1903)を著し、また、三舟全員を扱う『三舟秘訣 鉄舟・海舟・泥舟』(1903)と『徳川政道 家康遺訓三舟補述』(1903)も刊行している。
上記の書物は当時、大流行を見せた武士道論と密接な関係にある。武士道論の流行は明治20年代、とりわけ日清戦争(1894−1895)以降に始まり、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してきた。20世紀の始めにイギリスの知日家 チェンバレンB.H. が当時の日本における武士道の昂揚という現象を「新宗教の発明」と呼んでいるほどである(1)。菅野覚明が指摘している通りこの時すでに武士身分は消滅しているから、それら「武士道」の名を冠された思想は、武士のそれではなく、明治国家で生まれた「民間思想」なのである。当時、多数に刊行された書物に見られる武士と武士道の乖離は、明治期の武士道論一般がはらむ問題であり、それが今日における武士道概念混乱の淵源ともなっているのである(2)。この意味で安部正人の著作の内容も例外ではなかったが、他の武士道論者と違って彼は自分の著作に一つの工夫を加えた。つまり、民間人である「安部正人」ではなく、身近な歴史に足跡を残した武士「山岡鉄舟」の名を借りて、自分の武士道論の作者にしたのである。このように時代の流れに沿った武士山岡鉄舟の武士道論が登場したのである。
近年、宇野田尚哉、樋口浩造、その他の研究者が新渡戸稲造の「武士道」論を巡って議論を盛んに展開している(3)。また「武士道」全体を扱う佐伯真一と菅野覚明の研究が出版されている。一般世間と研究者の「武士道」に対する関心が高まりつつあり、その中で、山岡鉄舟の「武士道」論にも注目が集まっている。
1911年に出版された鹿島桜巷著『幕末二傑 海舟と鉄舟』に「近頃の流行語となって居る武士道とは早く鉄舟に因って称へられ、其行に示されて居る」(4) という文章がある。すなわち、安部正人が編纂した『武士道』(1902)という書物によって、「武士道」という言葉が山岡鉄舟の名前と結びついて、切っても切れない関係になったことが分かる。
しかも、その「武士道」の内容は、既に本来の意味を失い、明治時代の新しい意味を帯びたものなのである。しかし、新渡戸稲造の「武士道」論などの研究は盛んに行なわれているが、安部正人の編著の成立事情と背景は、これまでに明らかにされたことがない。そして「鉄舟に因って称へられ」たと鹿島桜巷は言うが、これらは安部正人の創作であるという事実はほとんど知られていない。本稿で、安部正人が著した書物とその問題性について検討したいと思う(ただし、山岡鉄舟関係のものに限定することをお断りしておきたい)。
二 山岡鉄舟の武士道論
安部正人編『武士道』のなかで、祖先崇拝、皇室崇拝、道義、仏教、儒教などが日本古来の伝統的精神として肯定され、それに対して、科学、西洋文明、物質主義、利己主義、権利の主張などが日本の伝統を毒するものとして批判的に扱われる。そして、前者の代表が「武士道」であると主張されている。佐伯真一が指摘している通り、このような内容の武士道論は、荒唐無稽でありながら、この後にさかんになる「武士道史観」ともいうべき歴史観の原型をなしている(5)。
『武士道』(1902)の成立について安部正人はこのように述べている。すなわち、彼は、山岡鉄舟の武士道講話記録を山岡の門弟であった籠手田安定(6) から譲り受け、その評論を勝海舟に求めた。勝海舟は最初に細評を断わったが、安部の要望が切なるもので、結局、講話記録の各章に細評を加えた。その後、既に故人になっていた山岡の知人と門弟の勧めもあり、安部はこの講話記録を世に出すことを決め、その編纂に当たった。山岡の知人と門弟が山岡の武士道論の刊行を勧めた理由と安部の編纂着手の動機は、その当時の日本国内で西洋化が急激に進み、それに伴って社会における道徳・倫理・伝統が崩壊していることを憂えたことにあるという(7)。
『武士道』本文中の注記によると、山岡鉄舟の講話は1887年(明治20)に行なわれている(8)。勝部真長は、この講話はたぶん4回にわたったとしている(9) が、初版本の本文の流れから、6回が数えられる(10)。安部正人が勝海舟に評論を求めたのは勝の没する2−3ヵ月前、1898年(明治31)10月である(11)。安部はいつ講話記録を籠手田安定から譲り受けたか不明であるが、いずれにしても山岡鉄舟が講話を行なった時から勝海舟がこれを評するまで10年あまり経っていることになる(『武士道』の構成は、山岡鉄舟の講話ごとに勝海舟の評論が加えられているという形式を取っている)。
さて、安部正人編『武士道』が提示している大きな問題の一つは、『武士道』収録の口述と評論はどこまでが山岡鉄舟と勝海舟によるものなのかという信憑性である。山岡鉄舟の最も有名な伝記『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』(1937、以下『おれの師匠』と略)の中で長い間山岡の内弟子であった小倉鉄樹は
「(前略)色々な本に見える師匠の武士道論も籠手田さんから出てゐるのだが、どうも おれにはどこまでが師匠の本物か、合点がいかぬ」(12)
と述べている。山岡は折に触れ武士道についての見解を自分の剣術道場の門下に対して話していたとすれば、当然4年間山岡の側を離れなかった(13) 小倉鉄樹もその話を聞いているはずである。しかしながら、「山岡の思想」という項を含む500ページに近い『おれの師匠』の中で、小倉は山岡の武士道論について一切述べておらず、しかも、上記のように籠手田安定から出たとされる山岡の武士道論に対して明確な疑問を投げかけている。更に小倉は
「鉄舟は弟子たちを時間をきめて集めて、一場の講釈をすることなどはほとんどなく、四 六時中、折にふれ、その人に即して指導するといったやり方であった」(14)
と述べている。山岡鉄舟は、徳川家康以来幕府に代々仕えた武家に生まれ、しかも幕末と明治時代に剣豪として名をとどろかせ、晩年に剣術の指導に専念していたので、門人との話の中で時に武士道に言及することがあったかもしれない。しかし、それは武士山岡鉄舟、つまり 当事者 による発言であり、非常に現実的な意味合いを持ったはずである。ところが、安部正人編『武士道』は、現実を離れた理論に満ちており、趣旨を全く異にしている。その中で、日本の歴史が時代別に取り上げられ、推古天皇の憲法、光格天皇と平重盛の歌、楠正成の道訓状、「大薩遮尼乾子経」、八幡大神と菅原道真の言葉など、その時代を代表する天皇や有名人の言葉(多くの場合は漢文)が引用され、入念な準備をしておかないと出来ない本当の意味での「講義」である(15)。山岡は、知識人でも漢文学者でもなく、一生剣術・禅宗・書道の修行に没頭していた彼はこのような内容の講義を準備するための素養さえ持っていなかったと思われる。はたして、山岡がこのような形で突然6回にわたって武士道についての講義を行うことがあり得るのだろうか。
安部正人編『武士道』に対する小倉鉄樹の疑問を上記で引用したが、それを裏付けるいくつかの実例を紹介しよう(本稿の文量が限られているので、数多くの例から四つの代表的なものを選び、下記で掲げる。同じ理由で最初の三つの例について結論を先に述べ、論拠を注で示す)。
例1.
『武士道』における勝海舟の評論の中で山岡鉄舟の履歴が述べられている際、間違っている所も含めその9年前に出版された佐倉孫三編『山岡鉄舟伝』(1893)とほぼ同じ言葉が見られる(16)。
例2.
同じ勝海舟の評論には山岡鉄舟の江戸無血開城における功績が称えられているが、山岡鉄舟直筆の「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(1882、全生庵所蔵)からの書き直された引用が見られる(17)。
例3.
山岡鉄舟の講話にあたる「父母の恩」という項には「仏説 父母恩重経」などの仏教関係書物から引用が行なわれていると思われる(18)。
例4.
山岡鉄舟の伝記、などの文献の中で、山岡の「武士道講話」が1890年(明治23)発布の「教育勅語」に影響を与えたという俗説がよく見られる(19)。その根拠は、武士道の講話が行なわれた時に「教育勅語」の草案者・井上こわし毅と中村正直も同席していることである(20)。そもそも、「教育勅語」に関する膨大な研究の中で山岡鉄舟の名前が全く言及されないという事実自体がこの俗説を否定していると言える。さらに、山岡が行なったとされている武士道の講話と「教育勅語」の関連性について既に勝部真長が次の疑問を提示している。
「山岡鉄舟が明治二十年という年、まだ「教育勅語」の草案の話もなにもない頃に、その
「武士道講話」のなかで、「億兆を一にして、世々その美を済し」、「国体の精華」というよ
うな語句を、ほんとうにしゃべったのだろうか、というのが私の長い間の疑問であった。
しかもその講話の聴講者のなかに中村正直や井上毅が列席している。もし教育勅語の
中のいくつかの語句がほんとうに鉄舟の発想であって、その発想を中村正直や井上毅
が憶えていて、明治二十三年にいよいよ勅語の原案を作るとき、それらの語句や考え
方を採用したのだとすれば、勅語の考え方の根本には武士道の精神が入っているとい
うことになる。もっとも中村正直案の勅語草案には、これらの語句は見当たらないので
あるが。
安部翁(安部正人−引用者注)に私の訊ねたところでは「山岡先生など宮中に出入
りする人は、使っておった言葉なのだ」というのであるが、果たしてそうであろうか。私に
は依然として疑問である」(21)
という。ここで勝部真長は、『武士道』の語句はどこまで山岡鉄舟の言葉であるかという疑問を婉曲に提示している。これまで見てきた通り、安部正人は山岡鉄舟あるいは勝海舟の言葉を様々な資料からの引用に似せているが、この勝部真長の指摘も考慮に入れれば、武士道の講話が「教育勅語」に影響を与えたのではなく、逆に「教育勅語」が安部正人の『武士道』に影響を与えているということになる。つまり、安部は山岡の武士道講話を「教育勅語」の言葉にも似せているということである(22)。安部は、武士道講話記録の本文の文字・口調は、概ね講話記録のままに残されていると注記している(23) が、山岡の内弟子小倉鉄樹の「元来師匠は書はよくしたが、文はあまり学んではゐないからあれほど巧みではない」、「山岡は文学に疎かったから文章は拙いが、それでも気持はよく出て居て、其の文の拙いのが却っていい」(24) という指摘を考えてみると安部正人編『武士道』と「教育勅語」には偶然と思えないほど同じ語句が出ているという問題だけでなく、山岡は文書どころか自分の講話の中であんなに硬い文語体の言葉を本当に使ったかどうかという疑問も出てくる(ちなみに、山岡の「武士道講話」全体にはこのような文語体の語句が非常に多い)。
上記の例から分かるように『武士道』を編纂した安部正人は様々な資料から引用を行い、これらの引用を山岡鉄舟あるいは勝海舟の 言葉 として『武士道』の本文に載せているので『武士道』の内容全体が創作であると判断せざるを得ない。
安部正人による創作が発覚されることなく、その『武士道』が出版を重ね、更に太平洋戦争の直前、また戦争中にも改訂版として刊行され、その当時の日本の軍国主義と国体論のプロパガンダに大いに貢献しているようである。そして1969年(昭和44)以降大東出版社、角川書店から『武士道』が勝部真長編として新たに出版され始め、現在に至っている。
安部正人編『武士道』の内容は近年の研究で批判の対象になりつつある。たとえば、勝部真長は「もし学問的な、思想史的な研究書として見ようとするなら、むしろ欠点だらけであり、ナンセンスでさえあろう」、また佐伯真一は「ほとんど荒唐無稽ともいえる内容」(25) と指摘している。確かにその通りではあるが、安部正人が「山岡鉄舟口述」という形式を借りて出版した『武士道』は時代の流れに乗って生み出された創作であるということが広く知られていないので、山岡鉄舟も必然的にこのような批判の対象になっているのである。
様々なバージョンで出回っている安部正人編『武士道』は山岡鉄舟の虚像を作り上げ、山岡鉄舟・勝海舟あるいは武士道に興味を持っている多くの人に既に一世紀にわたって誤解を与え続けている。
三 山岡鉄舟の「随筆日記」
山岡鉄舟の虚像の構築にさらに貢献したのは安部正人編『鉄舟随筆』(1903)である。収録されている「随筆」の多くは安政年間(1854−1860)の日付で、つまり山岡の20歳前後のものになっている。『鉄舟随筆』は『武士道』と同様に、山岡鉄舟の各「随筆」の後に勝海舟の評論が付けられているという構成になっている。『鉄舟随筆』には、山岡鉄舟直筆の剣術関係文書、江戸無血開城の始末書、岩倉具視口述・川田剛手記「正宗鍛刀記」(1883)などが収録されている一方、少年・青年鉄舟の思想が窺われるべき「随筆」と「武士道論」もあり、他の資料から引用された伝記的な内容も多い。
籠手田安定の山岡鉄舟による武士道講話記録の信憑性は既に検討を加えた。山岡鉄舟の研究家、牛山栄治(1899-1979)は、籠手田安定は若い時から山岡鉄舟に心酔して、その言行をよく記録し、そして安部正人の『鉄舟随筆』などの資料も、籠手田の手記から出ているものが多いとしている(26) が、山岡の内弟子小倉鉄樹は
「阿部(安部の間違い−引用者注)正人の『鉄舟居士言行録』(『鉄舟随筆』の別名・『鉄
舟言行録』の間違い−引用者注)にある師匠の随筆と称するものは此の籠手田さんか
ら出たと言はれて居(中略)るのだが、どうもおれにはどこまでが師匠の本物か、合点が
いかぬ」(27)
と述べている。
上記の小倉の疑問を裏付けるために、安部正人が編纂した『鉄舟随筆』で見られる創作の代表的な例を紹介しよう(第2章で述べた理由で、結論を先に述べ、論拠を注で示す)。
例1.
荻野独園著『山岡鉄舟居士伝』(1889)には、山岡鉄舟が龍沢寺の星定和尚に参禅したエピソードがあり、これが山岡の「随筆」として『鉄舟随筆』に転載されている。文脈もほとんど変わらないが、「随筆」の方の間違った日付「元治元年甲子正月十日」を見ても明らかな創作であるということが分かる。山岡鉄舟が星定和尚の所に通い始めたのは宮内省出仕後、つまり1872年(明治5)以降のことであり、1864年(元治元年)はあり得ない(28)。
例2.
『鉄舟随筆』に対する勝海舟の評論は『武士道』と同様に1898年(明治31)秋・冬の頃行なわれ た(29)。ここでも勝海舟の評論の創作が見られる。安部正人は、山岡鉄舟がかつて明治政府が与えようとした勲三等を拒絶した出来事について勝海舟に聞いて、勝海舟の答えの内容は、この出来事が起きた間違った時期を含め、佐倉孫三篇『山岡鉄舟伝』(1893)から孫引きされてい る(30)。
『鉄舟随筆』は再び『鉄舟言行録』という題名で1907年(明治40)に出版された。そして、ほとんどそっくりの形で1942年(昭和17)に『鉄舟随感録』という題名で出版され、この題名で2001年に国書刊行会からも出ている。国書刊行会版の『鉄舟随感録』の巻頭で、収録文書の出所が疑わしく、内容の大半も『武士道』と同様に荒唐無稽のものであるという事実とは反対に、「わが国文化史上、富岳の雲表にそびえ立つがごとき存在であり、心ある識者にとっては生涯にわたる指南書である」(31) という評価さえ受けている。
四 安部正人が著したその他の創作
安部正人は『三舟秘訣 鉄舟・海舟・泥舟』(1903年7月、以下『三舟秘訣』と略)という書物も出版している。
『三舟秘訣』には、山岡鉄舟の剣術などに関する直筆文書が収録されている一方、前述の『鉄舟随筆』のような疑わしい叙述がたくさん見られる。例えば、『三舟秘訣』に記載されている勝海舟の回想談の一つは「己れは山岡鉄舟の生父母を知って居るよ」という言葉で始まり、山岡の父と母についての「口述」が続いている(32) (先に取り上げた『鉄舟随筆』記載の勝海舟評論にも勝海舟は山岡の父について「己れも逢ふた事がある」(33) と述べている)。山岡の父が江戸から飛騨高山に転任した1845年(弘化2)の時点では勝海舟は20歳台の前半で、まだ出世しておらず、従って浅草御倉奉行(34) を務めた山岡の父のような幕府高官と付き合う機会がなかったので勝海舟は山岡鉄舟の父母を個人的に知っていた筈がない(山岡の父母は1852年(嘉永5)に江戸に帰らずに高山で没した)。これは勝海舟の有名な放談(35) なのか、それとも安部正人による創作なのか不明であるが、いずれにしてもあり得ない話である。
明治末期における安部正人の最後の著作は『徳川政道 家康遺訓三舟補述』(1903年12月)である。安部の執筆活動と彼が編纂した「山岡鉄舟の言文録」の性格について興味深い事実が浮かび上がるので掲げよう(下線は全て引用者)。
安部は、徳川家康の遺訓に三舟の補述を加えたことについて
「徳川幕末の偉人たる海舟、泥舟、鉄舟、各先生の所感を附して以て一巻となしたる所
以のものは猶一層遺訓の本領を詳にせんと欲してなり」(36)
と説明している。そして、この補述の出所について
「(前略)海、泥、鉄、三舟先生補述の如きは大準余が見聞当時の実録を蒐集したるも
のなり(後略)」(37)
と述べ、また山岡の「補述」の出所について
「左に記載するものは、鉄舟先生明治年間在世中、幾多談片の内に於て、家康遺訓及
徳川政道等に関する直話にして、余が見聞に属するもの数節を録す」(38)
と言う。
以下で推測するが、1898年(明治31)の時点では安部正人は21−22歳であった。上記で下線を引いた二ケ所では、安部正人が直接に山岡鉄舟の言葉を聞いたかのように読み取れる余地も充分残している。しかし、山岡が没した1888年(明治21)にさえ安部が11−12歳であったことになる。10歳を越えたばかりの子供がたとえ山岡の直話を聞いても、これを理解し、記録するということはあり得ないのである。このあたりの曖昧な文章表現も、安部正人が、自分の創作を本物らしく見せかけるために取った手段の一つである。
五 安部正人の執筆活動について
上記で見てきた通り安部正人が関わった山岡鉄舟関係の著作には、多くの創作があるが、その執筆活動全体について触れておきたい。
現在、年齢、職業、身分など、安部正人についての情報が残っていない。しかし、安部の著作が出版された時期に彼は何歳であったかが重要なのでその年齢を特定してみよう。1903年(明治36)8月に出版された『鉄舟随筆』には山岡鉄舟の子息、直記の所感が載せられ、そこに
「友人安部正人君は豊後の人なり。年未だ成年に満たずと雖も、平生心を物理に潜
め、忠愛の志深く、最も神仏を尊敬す云々」(39)
と書いてある通り、安部正人はその著作が次々と現れた時にかなり若かったこととその出身は豊後(現在の大分県)であることが分かる。また安部正人が「鉄舟随筆」に対する勝海舟の評論を聞いた時に「余当時年既に二十才を越ゆる」(40) と述べていることから、「鉄舟随筆」に対する勝海舟の評論は1898年(明治31)秋・冬の頃行なわれた(41) ので、その時点で安部正人は21−22歳、その著作が連続的に現れた1902−1903年には25−27歳であったろう。なお、太平洋戦争の時に出版された『武士道』の改訂版と『鉄舟随感録』(『鉄舟随筆』の別名)には安部正人による新しい序文が記載されているので、安部は少なくとも太平洋戦争まで生きていたことも分かる。
次に、安部正人が表した著作とその出版年月およびページ数の関係を見てみよう。
明治末期における安部正人著作の発行間隔
この表から分かるように安部正人は、いわゆる「幕末の三舟」について1902年(明治35)から1903年(明治36)まであわせて7冊の著作を著している。そのページ数は約150−300ページという大きな文量である。1903年だけでも、安部正人は文量の大きい5冊を著し、その内4冊が山岡鉄舟と関係している。
20歳代前半の青年が僅かな2年間の内に「幕末の三舟」について文量の大きい7冊を著したことは何を示しているのだろうか。出版の間隔が余りにも短いので、安部正人は、大量生産で自分の本を世に出していることが分かるのである。ここで特に注意したいのは、これらの著作は、その内容に直接に関わっている人たち(山岡鉄舟とその夫人英子、勝海舟、高橋泥舟、籠手田安定)が 没した後 に出版されたことである(42)。
安部正人は最初から山岡鉄舟関係のシリーズを世に出すつもりだったらしい。安部は具体的な題名を掲げないが、『武士道』(1902)の終りに
「尚ほ先生(山岡鉄舟−引用者注)の言話遺稿鮮なからず。追て余は冊を改めて、是
れを梓せんのみ。乞ふ読者幸に是れを諒せよ」(43)
と、近いうちに出版される自分の著作の発表予告を行なう。山岡鉄舟は一生無口で、書物もあまり書いていないという事実とは反対に、安部正人は宣伝のために「言話遺稿鮮なからず」と書いたのである。このように安部正人は、自著をおおげさに宣伝する傾向が際立っている。
更に安部は「幕末の三舟」とその親族、その他有名人の権威を借りるために自著の責任表示には彼らの名前を利用している。例えば『鉄舟随筆』には堂々と「徳川慶喜公題字、勝海舟翁評論、高橋泥舟翁校閲、籠手田安定手簡、山岡直記子所感、安部正人編」という責任表示になっている。同様に、宣伝の目的でもあるが、読者の信頼を得るために安部は勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟、その親族と門人との緊密関係を持っているということを常に強調している。『鉄舟婦人英子談話 女士道』(1903)の中で高橋泥舟が安部正人を評して
「(前略)足下は、既に山岡(鉄舟−引用者注)との関係密にして、略ぼ彼れの人柄をも
知る人」(44)
(安部は山岡鉄舟と個人的に付き合ったという話はあり得ない)、あるいは『三舟秘訣』掲載の「剣法と禅理」の終りに安部は
「以上に申上げた事は、 余が鉄舟先生を代表して (引用者による下線)、明治十三年四
月の先生御自記の随筆を大畧相違しないやうに、其れを土台として、申上げたのであ
ります」(45)
ということさえ書いている。
上記で見てきた安部正人の執筆活動全体の問題点は何を物語っているのだろうか。彼は恐らく、「幕末の三舟」、特に山岡鉄舟の心酔者であったと見るのが妥当である。勝海舟の心酔者であった吉本襄が勝海舟の『氷川清話』を改竄した(46) 如く、安部は自分の創作と他の資料からの引用を交ぜて、「山岡鉄舟の口述」、「鉄舟随筆」などの創作にしたのである。ただ心酔者としてこれを行なえばまだ良いが、彼は「武士道の昂揚」という時代の流れに乗って、有名な剣客であり、しかも江戸無血開城の功労者として知られていた山岡鉄舟(47)、同じく勝海舟、有名な槍術家高橋泥舟、他の有名人の名を利用して、自分の著作を市場に売り込んだのである。青年の功名心と経済的な利益の追求がその目的であったろう(48)。これは、安部正人だけでなく、出版社の営利追求という問題も絡んでいるかもしれないが、やはり最終的な責任は安部正人にあることは間違いない。
以上、安部正人が著した著作を検討してきた。安部正人の著作を総括的に評すれば偉人の崇拝精神が目立ち、「幕末の三舟」を超人的な存在にまつり上げることに努め、日本国民の優位性を強調する民族主義も非常に強い。山岡鉄舟における一種の有名税ではあるが、既に100年にわたって様々な文献で引用され、現在でも出版を重ねている安部正人の編著に収録されている「山岡鉄舟口述」あるいは「随筆」の大半が創作であり、山岡の虚像構築に大いに貢献している。このような安部正人の創作は、後に出版されていった山岡鉄舟の伝記に大きな影響を与え、山岡鉄舟とその思想、人格、事績などについて誤った知識を普及させてしまったのである。
注
(1) Chamberlain B.H. "Japanese Things: Being Notes on Various Subjects Connected with Japan", Charles E. Tuttle Co.: Publishers, 1971年、 531頁。↑
(2) 菅野覚明『武士道の逆襲』、講談社、2004年、11−13頁。↑
(3) 宇野田尚哉「武士道論の成立−西洋と東洋のあいだ−」、ぺりかん社『江戸の思想』、第7 号、1997年11月。
樋口浩造「語りの中の「武士道」-- 批判的系譜学の試み」、『日本思想史
学』、第33号、2001年。↑
(4) 鹿島桜巷『幕末二傑 海舟と鉄舟』、大学館、1911年、127頁。↑
(5) 佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』、日本放送出版協会、2004年、 245−246頁。↑
(6) 籠手田安定(1840−1899)。元老院議官を経て、島根県・新潟県・滋賀県等の知事を歴任し
た。1881年(明治14)1月に山岡鉄舟の剣術道場に正式に入門。↑
(7) 山岡鉄舟口述、勝海舟評論、安部正人編『武士道』、光融館、1902年、1-7頁(以下、安部正
人編『武士道』)。↑
(8) 同、77頁。↑
(9) 山岡鉄舟口述、勝海舟評論、勝部真長編『武士道 文武両道の思想』、大東出版社、1997
年、7頁(以下、勝部真長編『武士道』)。↑
(10) 講話の始まりは:第1回−10頁、第2回−51頁、第3回−121頁、第4回−163頁、
第5回−223頁、第6回−237頁。↑
(11) 安部正人編『武士道』、85頁。↑
(12) 小倉鉄樹炉話、石津寛・牛山栄治手記『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、春風館、1937
年、341頁。↑
(13) 前掲『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』に出ている小倉鉄樹の口述は、山岡鉄舟と4年間
にわたって寝食を共にしていた人物のものである。小倉は、1881年(明治14)12月から山
岡鉄舟が没した1888年(明治21)7月まで、凡そ6年間半(ただし、その内2年間半、山岡の
命でその側を離れ、京都で禅の修行に励んだ。なお、入門直後、山岡道場の離脱期間は数
ヶ月に過ぎなかったと思われる)にわたって山岡の内弟子であった。山岡の内弟子の生活
は、家宅と道場の掃除、炊事、食事中山岡の給仕など、多岐にわたり、小倉の場合は、本
格的に剣術の稽古に入った時に一切の家事を免除されたが、とにかくほとんどの時間を山
岡の家宅と道場で過ごした。小倉自身も「おれは大抵師匠の傍に居て用を足してゐた」とい
うふうに回想している(以上、『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、241頁、253頁、413頁)。
なお、小倉鉄樹の回想によると彼が1881年(明治14)12月31日に山岡鉄舟の内弟子とな
ったが、これはまだ正式な入門ではなく、牛山栄治の『山岡鉄舟の一生』(春風館、1967年)
の245頁によれば小倉鉄樹が門弟名簿に正式に登載されたのは1882年(明治15)9月3日
だった。↑
(14) 牛山栄治『山岡鉄舟 春風館道場の人々』、新人物往来社、1974年、23頁。↑
(15) 安部正人編『武士道』、59頁、137頁、164頁、180頁、185−187頁、194頁、
197−201頁。↑
(16) 次のように照合: 佐倉孫三『山岡鉄舟伝』、普及舎、1893年、1−3頁、23−39頁/安部
正人編『武士道』、41−45頁、90−105頁。↑
(17) 次のように照合: 安部正人編『武士道』、90−91頁/山岡鉄舟直筆「慶応戊辰三月駿府
大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」。なお、この山岡鉄舟が書いた江戸無血開城の始
末書は、もともと題名がなく、「戊辰談判筆記」、「戊辰解難録」、「明治戊辰山岡先生与西郷
氏応接筆記」、「西郷との応接の記」、「両雄会心録」など様々な題名で出回っているが、い
ずれも同じ内容である。↑
(18) 次のように照合: 安部正人編『武士道』、13−17頁/大竹利典『無形文化財 香取神道
流』、第3巻、1978年、148−142頁。↑
(19) 例えば、大森曹玄『山岡鉄舟』(春秋社、1970)の188−193頁を参照。↑
(20) 安部正人編『武士道』、37−39頁、84頁、142−144頁、241頁に彼らの名前が見える。↑
(21) 勝部真長編『武士道』、166頁。↑
(22) 安部正人編『武士道』の21頁に「国体の精華」、51頁に「我が 皇祖 皇宗」、52頁に「億兆
心を一にして、世々その美を済し」という語句が見られる。↑
(23) 安部正人編『武士道』、8頁。↑
(24) 前掲『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、4頁、146頁。↑
(25) 勝部真長編『武士道 文武両道の思想』、170頁。前掲『戦場の精神史 武士道という幻
影』、245−246頁。↑
(26) 前掲『山岡鉄舟 春風館道場の人々』、20頁。ここで『鉄舟随筆』は『鉄舟言行録』という別
名で出ている。↑
(27) 前掲『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』、341頁。↑
(28) 次のように照合: 荻野独園著『山岡鉄舟居士伝』、1889年、2丁/安部正人編『鉄舟随
筆』、光融館、1903年、152−153頁。↑
(29) 前掲『鉄舟随筆』、凡例2頁。↑
(30) 次のように照合: 佐倉孫三『山岡鉄舟伝』、普及舎、1893年、66−69頁/安部正人編『鉄
舟随筆』、光融館、1903年、211−216頁。↑
(31) 山岡鉄舟筆記、勝海舟評論、高橋泥舟校閲、安部正人編『鉄舟随感録』、国書刊行会、
2001年、9頁。↑
(32) 安部正人編『三舟秘訣 鉄舟・海舟・泥舟』、有斐閣、1903年、17−19頁。↑
(33) 前掲『鉄舟随筆』、23頁。↑
(34) 村上康正編『一刀正伝無刀流開祖 山岡鉄舟先生年譜』、1999年、14頁。国立国会図書
館所蔵。↑
(35) 勝海舟による放談と言えば、様々な例があるが、例えば、江戸無血開城の実現に向けた西
郷隆盛との談判について「(勝海舟の)手紙一本で、(西郷隆盛が駿府から江戸の)芝、田
町の屋敷まで、のそのそ談判にやってくる」という思い出話がその典型であろう(勝海舟/
江藤淳・松浦玲編『氷川清話』、講談社、2000年、72頁)。江戸無血開城前後の経緯が極
めて複雑で、無論、勝海舟の手紙一通でとうてい実現できるものではなかった(江戸無血
開城の経緯について原口清「江戸城明渡しの一考察(一)」、『名城商学』、21(2)、1971
年12月号; 同(二)、21(3)、1972年3月号を参照)。この勝海舟の回想談を読むと江戸無
血開城の大功労者が勝海舟だけで、山岡鉄舟、高橋泥舟、大久保一翁などの幕臣の活躍
について全く言及せず、回想談が公になった時に勝に反論出来る人物が皆既に没していた
せいか、結局、勝の功績のみ後世に伝わったのである。↑
(36) 安部正人編『徳川政道 家康遺訓三舟補述』、有斐閣、1903年、凡例1頁。↑
(37) 同、凡例2頁。↑
(38) 同、196頁。 ↑
(39) 前掲『鉄舟随筆』、山岡直記の所感1頁。↑
(40) 同、108頁。↑
(41) 同、凡例2頁。↑
(42) 関係人物の生没年は次の通りである。山岡鉄舟1836−1888、山岡英子1840−1900、勝
海舟1823−1899、籠手田安定1840−1899、高橋泥舟1835−1903。高橋泥舟は1902
年(明治35)に出版された安部正人編『武士道』に関わらないが、「高橋泥舟翁校閲」となっ
ている『女士道』は高橋泥舟が没した1903年(明治36)2月13日の直後、同年同月21日に
発行されている。↑
(43) 安部正人編『武士道』、252頁。↑
(44) 安部正人編『鉄舟夫人英子談話 女士道』、大学館、1903年、27頁。↑
(45) 前掲『三舟秘訣 鉄舟・海舟・泥舟』、45頁。↑
(46) 『氷川清話』は、勝海舟が晩年に語ったものを編集したものであるが、中には勝の記憶違い
や彼一流の法螺などがあり、史実とのずれが見受けられる。また、『氷川清話』が最初に世
に広められたのは吉本襄の編集によるものであったが、編集の過程において海舟の真意
が歪曲され、また改竄著しいとの理由で、江藤淳と松浦玲に徹底的に洗い直され、再編集
された。(勝海舟/江藤淳・松浦玲編『氷川清話』、講談社、2000年、3−7頁、381−389
頁)。↑
(47) 現代と違って、明治時代の人々の山岡鉄舟に対する認識は、江戸無血開城の大功労者で
あるということが当時の新聞と様々な文献から窺える。↑
(48) 本稿で取り上げた安部正人による「幕末の三舟」関係書物の大量生産、三舟の親族と門人
との緊密関係の強調に基づく誇張、三舟を含む有名人の名前と安部の名前の列記、など
からこのようなことを推定出来る。また、1938年(昭和13)に出版された『武士道』(大東出
版社)の改訂版の序文で安部正人は自著『武士道』について「明治三十五年一月単行本と
して出版したものであるが、当時乃木将軍東郷提督を甫め文武百官朝野諸賢或は外国の
志士に至る迄之を購読せらるるの盛況を呈し、爾来武士道の声は何時とはなしに世に喧伝
せらるるに至った。日清戦争時代には、我が益荒男の精気を称して日本魂と云ふて居た
のが、此の書出でて後、日露戦役の頃には武士道の語が盛んに用ひらるるに至り、世間の
道義談は一も二もなく、武士道といふ事となり、広く之が民衆の裸に普及せらるるに及ん」だ
と述べている。これを読むと「武士道」という言葉が明治30年代に鳴り響いたのはあくまでも
安部正人が著した『武士道』のお蔭であるという印象を受けるが、勿論、そうではなかった
のである。安部正人の『武士道』が出版される前に黒岩涙香、三神礼次、井上哲次郎、足立
栗園、中西副松が既に武士道についての著作を著している。安部正人は「外国の志士」で
誰を指そうとしているのか、明らかではないが、外国人が日本の「武士道」に本格的に遭遇
したのは新渡戸稲造の『武士道』が英語で出版された1899年(明治32)であり、安部正人
の『武士道』が出版される3年前のことである(1900年に新渡戸稲造の『武士道』の英語版
は日本でも出版されている)。↑
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